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佐久間マリのオリジナル小説ブログ 18才未満の方の閲覧はご遠慮ください

   
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たぶん、きっと、ずっと、僕は 6
6.

「つーか、何やってんの俺……」

 黒光りする国産SUV車の中で、歩はハンドルに覆いかぶさり途方に暮れていた。
 県名がそのまま名前になっている駅が目の前にある。
  休憩もほとんどなしに東京から車を走らせること六時間。県庁所在地でもあり、故郷でもあるN市に歩はいた。いつの間にか駅舎が改装され、新しい現代的な建物に変わっている。
 地方都市の夜はこぢんまりと明るい。ネオンから一歩それればすぐ闇に包まれる。新しい建物と古い建物とでは圧倒的に後者が多く、高さも低いものが多かった。内に灯る照明の色も心なしかぼんやりしているように思える。
 突発的に生まれた行動力、一言でいえば衝動に等しかったが、それに歩は自分でも驚いていた。
 茉莉菜のところに行こうと思って車のキーを手にしたはずだった。ナビもそのつもりで設定したし、首都高速の入り口でもそう思っていた。どこでどう間違ったのか。ジャンクションの分岐点で、一瞬よぎった迷いは不思議なことに割合の少ない方に賭けてみるという冒険心を人に与えるらしい。
「そうだ……、太郎! あいつ、こっちにいんじゃん」
 歩は助手席に投げ置いたスマートフォンを手にとった。
 途中、コーヒーを求めて立ち寄ったサービスエリアで、茉莉菜に『やっぱり行けない』とメッセージを送ったのを最後に電源は切ってある。起動させるやメッセージが届いたがそれらは開封せずに、まずは番号をコールする。まるで待っていたかのような速さで一太郎の声が聞こえた。
『きりやんー! 携帯、電源切ってたっしょ。何しとんが。早よ来られ、友樹ん家だから』
「は?」
『だから、友樹ん家で集合なの。だって、きりやんが家ダメって言うからさー! ユキちゃんもおるちゃ』
「……お前、コロは? 帰るって……」
『あ? ああ、ばーちゃんに電話したらコロ元気だっつうからさー。この前の体調不良は食べ過ぎやったちゃらしいさかいに帰るんやめた』
「まじでかー」
『え、どうしたが?』
 今度は座席に背中を預けたかたちで、歩はますます脱力した。高級レザーシートの上を滑るようにずり下がって行く。
「ごめん、俺行かない」
『ええー? 何でさー!』
「いろいろ。じゃあな」
 話の途中で通話を切り上げると、歩はもう理由を探すのをやめた。無計画で無意味、無駄で無謀なこの旅をもはや楽しむより他ない。ちょうど気分転換もしたかったことだし願ったり叶ったりだ、と半分は自棄だったが、実際、こんな機会でもなければ一生、自らN県に足を運ぶことはなかったかもしれない。
 ギアをドライブに入れる。ハイブリットカーならではのゆるりと静かな発進をして夜の駅を後にした。
 鼻歌を口ずさみながら、握ったハンドルの上で五指を躍らせる。
 歩は高校卒業と同時に地元を離れたし、四つ上の兄が東京で就職したこともあって、両親が家を売り払って東京に住み始めたのは、歩が二十歳のときだった。実家がなくなってからはおそらく一度も帰っていない。
 当時アルバイトをしていたカラオケ店の前を過ぎ、少し車を走らせて、通っていた高校に向かう。しかし、なにぶん時間が時間なので在校生がいるわけでも、グラウンドでクラブ活動が行われているわけでもなく、真っ暗な学校など気味が悪いだけだった。今年度で廃校になるというのに感傷のひとつもないというのは、歩の高校生活がいかに校内で充実していなかったかを物語っている。
 学校帰りにしょっちゅう訪れたファーストフード店はなくなっていて、同じ建物のまま美容院になっていた。歩の好物だった鯛焼き屋は健在ではあったが、当然閉まっていて懐かしの味を味わうこともできない。
 いつもの放課後のコースでいえば、次は河原だ。友樹と一太郎の自転車と三台でふらふらと、ある時は全速力で、ハンバーガーをかじりながら、鯛焼きをくわえながら、歌を歌いながら、友樹をからかいながらここへ来て、歩はいつも後ろにセーラー服のさゆりを乗せていた。さゆりのリュックを、自転車を漕ぐ歩が体の前で背負い、ハブステップを使って後ろに立ち乗りをするさゆりが歩のスポーツバッグを斜めにかける。そして背中に歩のギターを背負う。思い出すとその情景にいつもオレンジ色のベールがかかるのは、まともに西日を受ける堤防だったからだろう。
 歩はそこで車を停めて降りてみた。しかし、高校の校舎同様、暗いだけの川原には、思い出の放課後も青春のかけらも見当たらない。
 こんなものなのかと思う。自転車でしか走ったことのない道をこうしてはじめて自分の運転する車で走っても、大した感動も感慨も、そして、違和感もなかった。
 時間の流れは驚くほど自然な変化として人を大人にするらしい。人間はどんな傷を負っても、成長はするし、前に進めるのだ。
 それは、嬉しいことに違いないのに、なぜか少し寂しい気がする。



「大ニュース! 今日のライブ、音楽事務所の人が来とるって!」
 息を切らしたさゆりが飛び込んできて、ライブ前の楽屋はざわついた。
 地方都市にあるライブハウスの数などたかが知れている。同様に、そこで演奏できるレベルを持つバンドも数知れている。そのため、どこで演っても楽屋はだいたいいつも決まった顔ぶれだ。
 その日、ライブハウス・ビートで催されるライブには、エッジワースを含め、対バン形式で五組が出演することになっていた。ビートはこの辺りでは一番大きなハコだ。
「ウッソ!」
「ほんとけ?」
「ほんとやち! 今マインさんに聞いた!」
 さゆりが楽屋の真ん中で、ヴィジュアル系のバンドマンやローカルアイドルに囲まれている。年齢も音楽のジャンルも様々で、衣装や見た目、髪の色もばらばらだからなのか、それぞれグループ同士の仲が悪いということはなく、どちらかというと仲間意識の方が強い。楽屋はいつも和気あいあいだ。
「それって、スカウトけ?」
「誰を見に来るが?」
「そこまでは何も言うとらんかったがいやけど」
「そりゃあ、当然お前らでないがけ?」
 誰かの一言に、その場にいた全員の視線が部屋の隅に集まっているエッジワースを向いた。
 中学二年の時、秋の文化祭のステージに出演したいがため、さらに言えば目立ちたいがため、もっと正直に言えば女子にモテたいがために結成されたエッジワースだったが、その時点での楽器経験と言えば、三歳から小学校二年生までヴァイオリンを習っていた一太郎と歩にはピアノ歴があったが、友樹にいたっては音楽の授業で使うピアニカとリコーダーくらいのものだった。
 ギターに触ったこともない三人が、一太郎は別としても、二、三か月の練習で形になるわけがなく、結局、実際に人前で初めて演奏できたのは、一年後の中学三年の文化祭だった。そしてそのまた数ヶ月後、中学の卒業記念にとビートで初舞台を踏んだのだが、その時でさえ、人様に聴かせてもいいレベルの演奏だったかというとそれも怪しい。もっとも、歩の歌だけはその頃からもう何かが違っていたが。
 それでもそれ以降、コンスタントにライブ活動をするようになり、学校生活そっちのけで励んだ練習の賜物か、それともそれぞれに素質があったのか、高校二年の頃には、チケットを友人知人の義理に頼ることなく全部がさばけるようになった。三年になってからは、どのライブでもトリを務めるまでになっている。もはや、ワンマンライブも夢ではないだろう。
「だって、さゆちゃんが投稿しとる動画の再生数、すごいちゃ」
「動画やと、東京の人も見られるんだもんな」
「お前ら、デビューすんのけ?」
「いや、知らねえし」
「そういうお話は、まず、うちを通してもらわんとね!」
「出たよ、鬼マネージャー」
「さゆっぺはエジワスの名物マネだもんなァ」
 そう言ったのはもちろん冗談でだったが、ライブ終了後、実際にさゆりは谷川の名刺を手にしていたのだった。
 歩は駅に戻って、駐車場に車を停めた。
 せめて一人くらい誰かと話をして帰りたいと、世話になったライブハウスを訪れることにした。歩にとっては学校などよりもずっと思い入れのある場所だ。ここで初めてライブというものを経験し、立ったステージの数も一番多い。谷川と最初に会ったのもここだ。
 ライブハウス・ビートは駅の裏側の飲み屋街の端にある。寂れた路地が、ライブのある日はたむろする客でいっぱいになる。思い出すだけでも胸躍る光景だ。
 今日はひっそりとしていたが、アメリカンなネオンサインが歩を迎えてくれる。赤や青のネオン管で『Beat』と文字が作られていてやや古くさい。店の外の壁には紙を剥がした無数の跡があって、場所を奪うように重なり合いながら直近のライブのチラシが貼ってある。いかにも素人くさい手書きのものからプロがデザインしたようなデジタル的なものもあって、そこだけ専用のライトで照らされて明るかった。
 ドアを開けると煙草と安っぽい飲食店の臭いがした。ビートのニオイだ。閉塞感いっぱいの入り口から通路を抜けるとホールが開けていて、ハイテーブルとそれを囲むハイチェアが何セットか並んでいる。その奥はステージだが、今日はアンプやマイクスタンドが端に寄せられ、そこでひしめき合っていてさながら楽屋のようだった。中央に居座るドラムセットがうらぶれて見える。
 あの頃、ここはとてつもなく広かった。客でいっぱいにすることに苦労した思い出があるが、今なら内輪の人間だけでいっぱいになってしまいそうな小ささだった。
 どうやらこの店は、ライブがない普段はバーとして営業しているらしい。あの頃、子供だった歩はそんなことも知らなかった。店に客はいない。たまたまなのか、いつものことなのか、この店を演奏以外で訪れたことのない歩にはわからなかった。
「マインさん」
 暇そうに煙草をふかしながら、天井から吊り下がるテレビで洋楽のミュージックビデオを見ていたリーゼントの男性に声をかける。BGMの音量は最小限に絞られていて、こんな静かなビートは初めてかもしれない。
 マインと呼ばれた男性は、歩を認めてみるみる目を丸くし、
「お? お、おおー! 歩!? 歩じゃねえかよ! 久しぶりだな、オイ! なんだ、一人か?」
「はい、俺だけなんすけど」
「そうかそうか! 座れ、ホラここ!」
 デビューしてから、実家に帰ったときに何度か挨拶程度にみんなで顔を出したがそれも売れ始
める前のことで、マインに会うのはひどく久しぶりだった。よく考えてみれば、マインという名
前も彼の本名なのか、もしそうだとしてどんな字を書くのか、ファーストネームなのかラストネームなのかもわからなければ年齢も不明だったが、『マインさん』は『マインさん』で、彼が敬愛するエルヴィスを模した服装も相変わらずだった。
「ご無沙汰してます。なんか、不義理ばっかしてすんません」
「何、水臭いこと言ってんだよ! お前らがどんなに東京で忙しく頑張ってるかわからねえようじゃライブハウスなんてやってられるか! 今日は店じまいだ。こんな日にエッジャーが来たら大事だ」
 マインは慌しく外に出て、早速ドアにかかるプレートをクローズに裏返した。エッジャーとは熱心なエッジワースのファンのことを言う。
「え、でも……そんな」
「気にすんな! おまえらのおかげでうちも繁盛しててな。ファンからすればこの店は当然聖地巡礼の一つってわけだ。お前がおるところにミーハーなエッジャーが来ちまったら大変だからな」
 そして、俺もお前らのおかげで音楽雑誌の取材受けたりなんかしてるんだぞ、と得意げに付け加えた。間接的ではあれ、マインへの恩返しができているのなら願ってもない。
「元気にしてたか? ま、元気なのは知ってるぞ。お前らが出てるもんは大体チェックしてるからな」
「すみません、俺ってばCDの一枚も持ってきてない」
「そんなのいらねえよ。いつも友樹が十枚くらい送ってくれるしな。で、俺も自分で十枚くらい買うだろ。二十枚もどうすんだって話だぜ。あ、お前がサインしてくれたら高値で転売できるな」

 即座にしますよと言った歩に、マインは冗談に決まってるだろと頭をはたいた。それにしても、相変わらず友樹のそつの無さには頭が下がる。
 マインは注文も聞かずに勝手にコロナビールの瓶の栓を抜き、清潔なのか怪しい手で飲み口にライムを搾った。それを歩の前に置く。
「あ、俺、車なんすよ」
「車ァ? 東京からか? 自分で運転してきたのか?」
「……ええ、まあ」
「何かあったのか?」
「いや、別に何もないんですけど。ちょっと急に……山が見たくなった、的な?」
「なんだなんだ、早い話が行き詰ってんだろ?」
 アユムはふっと笑う。
「早い話、そんなとこっす」
「せっかくお前と飲めると思ったのによ。つまらねえな」
「今度、ツアーでこっち来るんでみんなでお邪魔します。その時、ゆっくり」
 マインは少し屈んで、足元の冷蔵庫から取り出したのは瓶のコーラだった。あの頃から歩はここではそれしか飲んだことがない。互いに瓶をぶつからせると、マインは緑の瓶の口に吸い付いた。
「酒も煙草も、お前らは絶対のまなかったもんな。優等生バンドめ」
 曖昧に笑った歩に気づいているのかいないのか、マインはあっさりとその名前を口にした。
「さゆりがルールにうるさいのは今もだよ。ここで演ってる十代のやつらにいつも言っとるわ。酒、煙草、クスリはやるな。信号は守れって」
「信号もっすか? てゆーか、昔から謎だったんすけど、自転車の二人乗りだけはなんでかオッケーらしいんですよね、あいつ」
「なんだ、そりゃ。さゆりルールか?」
 二人は笑う。
 人並みにピアノが弾けたさゆりは、最初こそキーボードとしてエッジワースの一員に加わったがそれも一年ほどのことで、雅和がドラムに決まるやあっさりと表舞台から身をひいた。しかし、それからはまるでマネージャーのようにメンバーの世話から営業、渉外のような仕事を自ら買って出た。動画サイトに投稿しはじめたのもさゆりで、そこからネットでエッジワースの人気に火がついたようなものだ。谷川がエッジワースを知るきっかけこそそこではなかったものの、動画の再生回数に裏づけされた人気が谷川のプロデュース意欲を後押ししたことは間違いない。
「で、そのさゆりには会ったのか?」
 マインからの問いは唐突で、予想外だった。
「いえ、まさか。え、マインさん、俺ら別れたのって……」
「知ってる、もちろん知ってるさ! けど、もう時効だろ? お前は東京でいろいろよろしくやってんだろうし、どのみちもう俺らには手の届かない雲の上の人間だ」
 無言で視線を下げた歩に、慌てて、
「イヤ、別にそういう意味じゃなくてよ? お前が来てくれてすっげえ嬉しいんだよ?」
 マインは、さゆりについて尋ねようか歩が迷っているのを察したのか、ややあって、静かに優しい口調で言った。
「あいつは元気だよ。全然変わってねえなあ。いいのか悪いのか、年頃だってのによォ。今も人手が足りねえときは手伝いにきてくれてな」
 店内には、他のバンドのものに混じって、エッジーワースの写真が何枚も飾られている。一際大きく引き伸ばされ、額に入っているのはデビューが決まった時のものだ。考えたばかりのたどたどしいメンバーのサイン入りで、それは油っぽく、付着した埃が黄ばんでいる。見るに耐えないほど若い頃のものもあって、そのどの写真も撮ったのはさゆりだから、本人は写ってはいない。
「それにしてもお前、最近声が変わったな。すげえノビが出てきた。自分でもわかってんだろ?」
 煙草をくわえながらマインが言う。顔を傾けたので、リーゼントに固めた整髪料が黒々と光った。
「んー? なんとなくは」
「なんとなくなワケあるか! お前はわかってて歌ってるね。最近のお前は歌ってる自分に酔ってる。イキがったガキみたいな、そんな歌い方だ」
「どんな歌い方っすか」
 歩は第一線で活躍する音楽関係者から日々評価や感想をもらえる身分にある。それでも、今も昔も変わりなくマインから率直な意見をもらえることは嬉しかった。素直に耳を傾ける気持ちになる。
「……確かに、今まで出なかった声が急に出るようになって、そこを使って歌うのが楽しくて」
「ちゃんとトレーナーがついてんだろうから心配ないだろうけど、無茶して使うなよ。喉、痛めるぞ」
「ハイ」
「次の新しいアルバムも楽しみにしてるぜ。お前の新しい歌が聴けると思うと本気でわくわくするんだよ、こんなオッサンでも」
 マインの言葉に、歩は不本意にも泣きそうになった。友樹や雅和のように涙もろいタイプではない。どちらかというとドライな方なのに。うまく言葉を出せずにいると、マインは神妙な顔になって、
「どうした? 自信ねえのか?」
「……ベストは、尽くしました」
「なんだ、その奥歯にモノが挟まったような言い方は。ベストを尽くしたんなら大丈夫だろうが」
「尽くしすぎて、今空っぽで」
 歩は軽く頭を抱えて、
「まあ、なんか……その他にも、いろんなことが重なってちょっと……」
「こんな所まで一人、車を走らせてくるくらいだ。絶好調ってわけはないだろ」
「悩んでるとか凹んでるとか、そういうんじゃないんですけど……、気がつけば溜息、みたいな」
「いや、お前、それは悩める乙女の症状だろ。なんだ、女のことかよ?」
 マインが、かかかと笑い飛ばす。
「違いますよ。なんつーか、ライバル? みたいなバンドがいて……」
「そういえば、モンスターブルーってバンドと仲悪ぃのか? そう書かれてんのを最近よく見かけるけど」
「悪くないですよ。それ以前の問題で、話をしたこともないのに。けど、どうしてか彼らにライバル視されてて、やたらと絡んで来るんですよね」
 思わずため息が出た。言葉にして打ち明けてみれば、思っていたより彼らについて自分がもやもやしていたことを知らされる。
「あいつら、お前らのコピバンだろ?」
「あんまりちゃんと聴いたことないけど、確か俺と声が似てるとか言ってたような」
「追われる者になった側の宿命だ、喜べ。追う側は追いつけ、追い越せ、必死だからな」
「犬猿の仲みたいに週刊誌に書かれて。あからさまな敵意って、けっこう精神的な消耗というか、ダメージがあるんすね……」
 マインが笑う。
「こっちじゃ、他なんざ足下にも及ばねえカリスマバンドだったし、東京へ行ってもどっちかって言うと先輩バンドにかわいがられたんじゃないか? みんな尖ってねえし、雅和はいろいろ細やかだし、一太郎は空気読むし、友樹は友樹で、すぎるほど腰が低いしな。今でこそお前らも売れっ子だが、しばらくは苦労した時期があるから、売れた時もひがみより同情票の方が多かったんだろ。何より、実力がちゃんとあったしな」
 そう言って、マインはエッジワースの立ち位置を自己分析したが、確かに東京のライブハウスで他のバンドと歌うようになっても、地元にいた時と同じくトラブルというトラブルを経験したことはない。他のバンドはライバルではなく、常にリスペクトすべき存在だった。それがどれほど恵まれていて、幸せなことだったのか、今になってわかる。
「ま、大丈夫だ。モンブルにお前らは抜けねえよ」
 マインの一言は軽かったが、安心材料として歩には十分な言葉だった。少しだけ胸のつかえがおりる。しかし、今の歩の問題はそれだけではない。
「ぶっちゃけ、俺、今、全然詩も曲も書けなくて……。新しいアルバムも自信あったのに、あれでよかったのかなとか迷いとか出てきちゃって、そこへランキングとか数字のこと言われて」
 そんな歩の姿を、マインは目を丸くしてみて、「ここまで弱ってるお前を見んのは初めてだ」と驚き半分、楽しさ半分といった調子で言った。
「俺自身、こんなの初めてっすよ。……焦りがハンパないっす」
「数字はしかたねえ。世間も業界もそれが判断基準だからな。ブレイクだとか落ち目だとか好き勝手いいやがる」
 マインはカウンター内の丸イスを引っ張って、そこへ腰かけた。腕を組み、低い無骨な天井を仰いでいる。細く聞こえるBGMにしばらく二人で耳を澄ましていたが、やがて気分を切り替えるようにマインが勢い良く立ち上がった。二本、三本とコーラを出してカウンターに置く。
「ま、何の気休めにもならねえが、ほら飲め! せめて今夜は忘れろ! せっかく、東京が遠いんだ。って言っても、これだけどな」 
 と嘆くように言って、マインは肩をすくめた。
 歩も力なく笑って、
「ホント、コーラじゃ何の気休めにもならないっすよ」
 しかし、どのみちここに酒があっても現状は変わらない。
 梁がむき出しの天井で、照明が一つ、切れている。



 歩は住宅街の一角にある小さな児童公園の脇に停めた。
 車から降りると、Tシャツの上にパーカーを羽織っただけといういでたちでは肌寒さを感じる。こちらの冬は早い。
 この辺りは三十年ほど前に開発された住宅街で、大きくも小さくもない、似たような家が立ち並んでいる。さゆりの家はその中の一つで、公園の東側に面していた。表札には変わらず『四宮』とあがっていたことになぜかほっとした。恐れていた切なさよりも、安心の方が大きくて、時の流れを感じる。
 家には駐車スペースが二台分あって、そこにはいつも彼女の両親の車がとまっていたが、今日は二台とも出払っていた。家の明かりも消えている。
「おじさんもおばさんも留守なのか」
 さゆりもまだ帰っていないらしい。
 さゆりは今、製薬工場で働いているのだとマインから聞いた。 
「って、俺、完璧ストーカーじゃん」
 会いにきたわけではない。会いたいか会いたくないか、それすらも微妙だ。帰り際に、マインがさゆりに会って行ったらどうかなどと言い出すからだ。ここはさゆりが近いという事実を否が応でも思い出して、せっかく来たのだしと、きまぐれで足が向いただけだ。ミュージシャンたるもの、感傷に浸ることも、時には傷口に塩を塗ってみるのも大事だろう。
 ただ、会うつもりはなかった。会ったところで仕方がないし、何がどうなるわけでもないのだ。
 車に戻ろうと踵を返したが、なんとなく、不審であることは承知の上で、外灯が一つ灯るだけの暗い公園に足を踏み入れた。
 さゆりと中学三年のときに付き合いだして高校三年で別れるまで、たとえば映画だとか遊園地だとかに一緒に出掛ける、いわゆる『デート』をした覚えはない。世間一般の彼氏彼女の休日の過ごし方というものを知るにつけ、歩はあの頃のさゆりにひどく申し訳なく思う。そのことも原因だったのかもしれず、今となっては後悔しかない。もっとも、今もろくに茉莉菜を楽しませてやれずにいることを思えば、『彼氏』として全く成長できていないといえる。洒落た店で食事をしたり、雑貨や服やそういう細々とした女の喜ぶ買い物に付き合ったり、例えばディズニーリゾートに連れて行ったり、そういうことがあの頃、出来ていれば。
 歩は、遊び半分で始めたはずのバンドに夢中になり、すべてはそれが中心だった。あの頃の休日の過ごし方といえば、カラオケボックスか公園でギターの練習をするか、家でライブDVDを観て研究するかのどちらかで、買い物と言えばCDショップか古レコード屋、たまに出かけることもあったが、それはコンサートやライブ鑑賞のためで、さらに言うなら、いつも友樹や一太郎、雅和が一緒だった。
 それでも、年頃らしく二人きりになりたいという邪な願望だけはあって、それが叶うのは毎日練習が終わってさゆりを家に送り届けるまでの少しの時間だった。家の前にあるこの公園で、僅かな時間を二人で過ごした。はじめてキスをしたのもここだった。付き合いはじめてすぐの中学三年の冬のことだ。それこそ付き合う前から何度もイメージトレーニングをして臨んだのに、いざそのときになってみれば、どんな会話からそんな雰囲気になったのか、どのくらいの時間唇を合わせていたのか、さゆりがそのとき目を閉じていたのか、とにかく記憶がまるでない。いかに緊張していたのかがわかる。
 その昔、さゆりに告白するずっと前に、歩はわざわざ電車で隣の市の書店まで行き、当時友達の間で話題になっていた成人雑誌を買った。『ハジメテのとき、どうする!?』とかいう笑ってしまうような特集で、兄にその本が見つかったときには大笑いされ、挙句母にまでバラされた。そんな目に遭ってまで熟読したのに結局何の役にも立たなくて、即刻友樹にくれてやった。
 その後、どれほどのキスを、この公園の砂場に鎮座するパンダとクマに見られただろう。
 ふと、歩は暗闇のどこかから聞こえる猫の鳴き声に気づいた。
 スニーカーが砂を踏む音と同じくらい小さな声で、高く細い声色からしておそらく仔猫だろう。目を凝らしてみると、植木の陰に白い小さな塊を見つけた。目が合ったことへの返事なのか、もう一つみゃあと鳴く。
「おいで」
 手を差し伸べてみたが、警戒心の強い猫は一ミリも動こうとしない。
「お前、野良なのか?」
 ちょうど気持ちを吐露する相手が欲しかったところだ。複雑な心の内だから、人間の事情が通じない猫は話し相手には最高だ。
 歩はその場に屈みこみ、溜息をついた。
「どんなツラして会えっつーんだよなあ。マインさん忘れてんじゃね? 俺がさゆりに振られたってこと」
 高校三年の冬休み、歩はさゆりと二人で東京に出向いた。谷川からの招待があったからだ。普段が普段なので、東京はもちろん二人きりでそんなに遠くまで出かけることも初めてだった。
 そしてそこで、エッジワースのデビューが決まる。信じられなかった。一生分の幸せの半分、いやそれ以上をさゆりと出かけたあの二日の東京旅行で使い果たしてしまったのかもしれないと思う。
 年が明けて、三学期になると三年生は基本的に自主登校の扱いになる。歩をはじめ、受験しない友樹も一太郎ももちろん学校になど行かず、代わりにN県と東京とを何度も往復することになった。歩の人生で、あの数カ月ほど生活環境が変化した時期は後にも先にもないだろう。生活は一変した。
 慌しく、めまぐるしく、目の前の景色が変わっていくなかで、それはあまりに突然のことだった。上京を間近に控えた高校の卒業式の日、歩はさゆりに別れを告げられた。
 理由は、さゆりに他に好きな人ができたからだった。さゆりは驚くほど清清しい顔でそう言った。にわかには信じられず、何も言えず、そして、どうすることも、どうすればいいかもわからなかった。
 その前日まで何も変わった様子はなかったのだ。騙されたとにわかに腹がたった。
   けれど、よくよく考えてみれば、卒業式の前の日は登校日で、そこで歩は久しぶりにさゆりの顔をみたのだ。電話は毎日していたが、「こんなに会わなかったのは今まで初めてだよな」と言ったのは歩自身だ。
 歩はすでに東京にいる時間が増えていたし、地元に帰ってもさゆりはアルバイトに励んでいて、絵に描いたようなすれちがいの日々だった。疑いもしなかっただけで、さゆりには十分新しい恋愛を見つける隙があった。さゆりがいつから他の男を好きになったのか、そんな大きな変化にも全く気づかなかった。前日に交わした、最後となったキスを思い出して、唾を吐き出したくなった。
 さゆりは誰よりもエッジワースのファンで、誰よりもデビューが決まったことを喜んでくれているはずだった。だから、わざわざ確認するまでもなく、さゆりも一緒に東京に行くつもりだと思っていた。常々、歩はさゆりとの仲を、その辺の彼氏彼女と同じにされるのを嫌がった。二人は特別で、さゆりは運命の相手だと本気で思っていたからだ。そして、さゆりも歩と同じように思っているはずだったから、この先も一生一緒で、別れるなど考えもしなかったし、ましてや裏切られる日が来るとは思いもしなかった。
 けれど、思い返してみれば、さゆりと東京に行ったのは、デビューが決まった時だけで、当時は単に金銭的なことが理由かと思っていたが、今思えばさすがに生活の場所を移すにあたって事前に一度も行かないなどということがあるはずない。
 東京で部屋を探す時も、歩はさゆりと一緒に住むことを前提に事務所の寮を断っていた。支給される住宅手当だけではもちろん大したところを選べず、かといって収入がたくさんあるわけでないことは簡単に予想できた。せめて風呂とトイレが別のところ探し、家賃は足が出たが、その分は自腹を切るつもりだった。その話をしたときも、思い出してみればさゆりは曖昧に笑っていただけだった。上京する日も、そのアパートの住所も、何度もさゆりに伝えていたし、同じ日にさゆりもN県を発つのだと思っていた。引っ越しの予定などわざわざ確かめるまでもなかった。たとえば、歩が上京して新しい部屋のドアを開ければ、もうそこにさゆりがいて、すぐに新生活が始められるくらい、いつでもさゆりは歩をわずらせることがなく、完璧だったからだ。歩たちがバンド活動だけに集中できるように、それ以外の面倒なことや事務的なことは全てさゆりが引き受けてくれていた。甘えきっていたのかもしれない。そのことにさゆりは疲れていたのかもしれないと気づいたのは、さゆりを失ってずいぶん経ってから、歩がずいぶん大人になってからだった。
 もっと根本的なところを思い返してみれば、はっきり東京についていくと言われた記憶もなければ、ついてきてほしいと伝えたこともなかった。
 他の女のように、さゆりも言葉が欲しかったのだろうかと考えるが、もう確かめる術はない。今は、二人の間に言葉なんて必要ないと本気で思い、そういう形の恋愛が存在すると信じていたあの頃の自分をかわいく思うだけだ。
 歩が根気よく鳴き真似などして手を差し伸べていたら、猫がじわりじわりと寄ってきてとうとう歩の手をなめた。ざらりと乾いた舌だった。恐る恐る両手を添えると、小さな身体を抱かせてくれる。
「やべー、かわいー」
 夜の闇に月と外灯の光の色を毛並みに写した猫は青白い。
 猫を抱いて、滑り台に上ってみた。身長よりも少し高いだけなのに月がうんと近く感じる。
 見下ろした景色はなんら変わらない。それもそのはずで、あの頃すでに身体は大人だった。身長にしてもほとんど伸びていないはずだ。歩は小さくないが大きくもない。雅和と友樹は長身なので歩と一太郎はついチビに分類されがちだが、百七十五センチはある。ちなみに一太郎は百七十五・五センチという主張だが実際に測ってみたことはない。
 その時、静かな住宅街にエンジン音がして、路地をヘッドライトが滑るように移動してきた。そして、その軽自動車はさゆりの家の前で停車したかと思うと、ガレージに車庫入れしはじめた。四宮家の誰かが帰ってきたらしい。歩は慌てて象の鼻を模した滑り台を滑っており、
「ごめん。俺、もう行くわ」
 歩が言うと、仔猫はまるで言葉がわかるかのように、みゃーと鳴いた。
「ばいばい」
 公園の入り口の、声をかけられたのと同じ場所で猫を放つと、ぴょんと勢いよく飛び降りる。歩の腕から逃れる反動は仔猫であってもそれなりに大きかった。放してみて、それが小さな仔猫一匹であれ、生きた温かみの大きさに気づく。そんなことを今度歌にしてみるかと浮かんだメロディに指が動きそうになったとき、
「……歩?」
 名前を呼ばれて顔を上げる。
 パック牛乳とプラスチックの容器を持って、大人のさゆりがそこに立っていた。 
   
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