佐久間マリのオリジナル小説ブログ 18才未満の方の閲覧はご遠慮ください
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チョコレイト・ラブ 38
38
遠い意識に夢心地で感じていた音が、はっきりチャイムの音だと理解するまでに相当な時間を要したと思う。
はっきりと覚醒してからも玄関のインターホンは一定の間隔で鳴り続けていた。
誰かが来訪を告げている。どことなく控えめな押し方からいって、タケルでないことは明らかだ。
一体どれくらい眠っていたのだろう。
部屋に差し込む陽の色からしても、まだ夕方にはなっていないようだ。窓の外には日中のざわめきが感じられる。
三十九度九分と体温計にその高熱ぶりを改めて示されてみると、現金なものでたちまち起きていられないほどしんどくなった。まさに病は気からだ。
寝なければ治らないと綾に半ば無理やり布団に押し込められ、相変わらず止まらない咳と関節痛に、眠ることなど無理なように思えたが、おとなしく横になっているうちにいつの間にか泥のように、意識もなく眠っていた。
時間の経過と睡眠による効能を期待して布団の中で寝返りを打ってみるも、そのしんどさに変わりはない。むしろ悪化しているようにも思える。汗をかけばいいと言うが未だ寒気に襲われている状態で、その段階にすら到達していないようだ。
家に中には誰の気配もない。いつの間にか綾は帰ったらしい。そういえば後に仕事が控えていると言っていた。
「綾……」
うわごとのように呟く。
痛々しいほど無理をした明るさで俺の自惚れだと笑ってくれた。単なる俺の自惚れだということにしてくれた。
もし今が心身ともに健康であれば、その自責の念で押しつぶされていたかもしれない。
この心の痛みが綾への気持ちだとすれば確かに愛情だといえる。が、これも綾に言わせれば、詭弁なのだろう。その実、梓を思うそれと同じ種類かと言われれば、やはり違うのだった。
どうやら俺のよかれとする行いはすべて、他人には何一つプラスにならないようだ。
「偽善者もいいところだな」
またチャイムが鳴る。
なんだって、今日に限って来客が多いのだろう。
ともかく今日は相手が誰であろうと対応不可能だ。居留守を決め込む。それ以前に今は起き上がることすらできない。頭ではわかっていても身体が動かない。 しかし、俺に用事があると言っている誰かの意志を無視し続けるというのはどうも落ち着つかず、早くあきらめて帰ってくれないだろうかと思った次の瞬間だった。
がちゃりと新鮮な音が耳に飛び込んできた。状況を判断する間もなく、ゆっくりとドアが開かれたのが外界と部屋の中の空気が通じた気配でわかる。
熱で上がっていた息さえ、思わず止まっていた。もともと動くことはできなかった身体を意識的に硬直させる。しかし、いつもより大きく身体に打つ脈だけは隠しようがない。
寝室の戸は閉まっているので直接玄関の様子はわからない。 けれど確実に誰かが部屋に中に侵入している。
「……ウソだろ」
自分だけに聞こえるよう息だけで呟いた。
アパートの掲示板に空き巣の被害が報告されていた。物を盗られるだけならまだましで、命をも取られる昨今だ。警戒するようにとあったがこの場合どう警戒すればいいのだろうか。熱で動かないこの身体ではなす術もない。 俺が家にいることなどめったにないというのに、わざわざ狙って入るのが今日だとは。
「けど、もうどうでもいい……」
入るなら入ってくれて構わない。盗るなら大いに盗ってくれ。ついでに刺すなら刺すがいい。まさにもってけドロボー状態で完全に白旗を揚げれば、次には腹の底から笑いがこみ上げてくる。 クライマーズ・ハイに似た状態とでも言うのだろうか。正体不明の高揚感が脳内を支配していた。高熱が確かに理性を麻痺させている。
部屋の引き戸が、おそるおそるといった調子で開いていくその時でさえ、怖さは感じなかった。
恐怖からの超越は理性からの解放だ。
金縛りになったようにベッドから動けないくせに、次元の違う世界にトリップした気分に水を差したのは、予想もしない人物の声だった。
「……然?」
部屋に響いた現実そのものに、一瞬で意識は常識の範疇に引き戻る。
「あ、あず……」
反射的に身体を起こそうとしたが、その名を最後まで言えないままに、また激しい咳に襲われる。
「だ、大丈夫? 風邪なの?」
慌ててベッドに駆け寄ってきた梓が俺を支える姿勢をとろうとしたが、それをやんわりと押し戻した。
「うつるから」
そう言ったのは声とも咳ともつかない、もはや息遣いに等しかったが、梓には伝わったらしい。
「人の心配してる場合じゃないでしょ!」
熱や症状、薬のことで質問攻めにあうも、それに対して頭が回らず、ろくな返事ができない。
一方でひどい剣幕で俺の前にいる梓を冷静に分析している自分もいる。着ている上着は実家で一緒に買ったフード付きのダウンコートだ。メイクもいつもよりナチュラルで、今日は休みなのだろう。
いや、そもそもどうしてここに梓がいるのだろう。
その理由を問うべく、何で、と言いかけたが、結局、「な」しか言えずに、続きはまた咳になった。
察した梓が話してくれたいきさつには、どうやら綾が関係しているらしい。
「電話があって、急いで来てくれってそれだけ言って切れちゃったの。メールで送られてきた住所に来てみれば」
梓は困ったふうに言葉を切ってからややあって、
「……熱、あるの?」
俺は、ゆっくり目を閉じながら頷いた。
「つまり私に看病しろってことなの? でもどうして私? 綾さんに私のこと話したの? そうだとしてもここはどう考えても綾さんの出番じゃ……」
聞こえる梓の声のトーンは限りなく低く、訝しんでいる様子がありありと伝わってくる。俺は渾身の力を振り絞って、上半身を起こした。
驚いた梓が制止するのも構わず、きしむ身体を無理やり起こす。ヘッドボードに置かれたペットボトルに手をのばし、喉を潤した。
「綾には全部話した」
伝えた言葉は、咳込まないように気をつけながらだったのでより慎重な声色になる。
「綾とは再婚しない。……俺は、再婚しないよ」
「な、んで……? もしかして私が原因? 綾さん、バツイチ男は嫌とか?」
眉をひそめる梓は真剣そのものだったが、その見当違いな推測には思わず苦笑が漏れる。
「梓が原因」
「え?」
「……って言ったら、責任とってくれる?」
「責任って」
戸惑いを露わにした梓を、俺は乾いた笑いと共に次の瞬間抱きしめていた。
「ぜ……」
熱に浮かされている今の状況を最大限に利用する。もちろん熱の力がなければとうていできないことだ。梓が嫌がるかもとかどう思われるだろうとか、いつもなら第一にそれらが俺を支配するはずなのに、今は考えが全く及ばなかった。
「え、ちょ、然……やめ……」
懐かしすぎる、身体の厚みだった。
腕の中で、梓が抵抗をみせればみせるほど、腕に力を込める。
「ねぇ、然? どうしたの。熱すごい……身体熱いよ。やけどしそう」
少しずつだが、強張りをみせていた身体は俺に馴染んでいくのが感じられる。その様子に、また力がこもった。
「……ねぇ、責任って何? どうやって取ればいいの?」
「取ってくれるの?」
「だって、私のせいなんでしょう。どうすればいいのかわからないけど」
梓のうなじに、鼻先がつぶれるほどに顔をうずめる。
なんだってこんなことをしているのだろう、俺は。
そう思いながらも、一方で今なら何でもできる気がした。
思いのままに、梓を奪うことも。
「……結婚なんかするな」
絞り出したその言葉は、実際声になったのか、それとも意識の中で叫んだだけだったのか。
わからないままに、身体の力だけが抜けて行った。
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