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佐久間マリのオリジナル小説ブログ 18才未満の方の閲覧はご遠慮ください

   
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たぶん、きっと、ずっと、僕は23
23.

「たいへんな……こと……?」
 起きたばかりの頭は働いておらず、もちろんその意味するところに理解も及ばない。布団の中で、いつの間にか再び瞼は落ちていて、すぐまた眠りに引き込まれそうだ。
『ごめん、さゆり。頼むから起きて。ネット見て。あー、スマホは俺と電話して使ってんのか。パソコンは? すぐ立ち上げられる? あ、それより外! 外に誰かいる?』
「えー……そと? なんでぇ? こんな時間に誰かおるはずないやろ……てか、今何時よ……」
 あくび混じりの暢気な口調に、歩は『さゆり、起きろってば』と苛立った様子を隠せない。
『まだ外に誰もいないよな? 今、友樹が迎えに出たから。あと十五分くらいでそっちに着く。急いで起きて荷造りして。しばらく家には帰れないと思うし、そのつもりで出かけてほしい』
 さゆりはがばりと起き上がった。それまで夢うつつで聞いていたが、ようやく異常に気づく。布団から出るのが寒いとかまだ眠いとか言っている場合ではないらしい。
「歩? ち、ちょっと待って。一体、何の話ちゃ? 何言っとるの?」
 電話越しに、やっと目覚ましてくれたか、と安堵の溜息が聞こえ、歩は口調を改めると、
『落ち着いて聞いて』
「え? 何……どうしたん」
「昨日のライブでさ、俺が言ったこととか、ギフトを歌ったこととかが騒ぎになってて」
 歩が一瞬、口を噤んだように思えた。
「ネットに流出してるんだ、さゆりの写真が」

*

 時刻を確認しれみれば四時すぎだった。冬の朝は遅い。外はまだ真っ暗だ。
 ベッドを出るとき、そっとカーテンの隙間から確認した家の前の道路だったが、それらしき人の姿は見当たらなかった。
 手当たり次第に荷物を鞄に突っ込んで、そろそろかと時計を見上げたのと家の前で車が止まる音がしたのは同時だった。
 雨戸もガスの元栓も閉めた。火の元も確認した。さゆりは慌ててブーツを履き、電気を消す。
 外は頬を刺すような寒さだった。家の前に白い排気ガスをもくもくとさせたワンボックスカーが停まっている。後部座席のドアが自働で開いて「さゆり」と友樹の声がした。
 新聞受けにはすでに朝刊が届いている。
「すぐ行く」
 玄関を施錠しながら、ふと、次この鍵を開けられるのはいつなのだろうと思う。新聞は止めた方がいいかもしれない。頭の冷静な部分で考えた。
「久しぶり。迎えに来たのが歩じゃなくて悪いな」
 乗り込んだ車の中は温かかった。友樹は運転席に座ったまま振り返った。
「ううん、うちこそわざわざ迎えに来てもらって……。ほんと、久しぶりやね。って、うちは昨日ライブで友くんを見たし、全然久しぶりって感じせんわ」
「そうか、じゃあ俺だけ久しぶりなのか」
 しかし今、再会を喜んでいる暇はないらしい。
「忘れ物ない?」
 さゆりは曖昧に頷いた。何のための何が必要なのかもわからないまま出来上がった荷物だ。
「とりあえず必要なものは詰めたつもりやけど」
「まあ、足りないものは買うなりして。とにかく今は急ごう」
「ねえ、そんなに大変なことになっとるん?」
 早くも車を発進させた友樹に詰め寄ると、
「ネット見た?」
 さゆりは首を振る。起きてからというものそんな暇はなかった。
「昨日の今日だからさ、まだどうなるかわかんねえんだけど、今の状況から言えば、生活が一変するかもしれない、これから」
 どこに向かうのかと尋ねたさゆりに、友樹は駅前のビジネスホテルの名前を告げた。槙田が手配した部屋らしいが、もちろん歩はじめエッジワースのメンバーが滞在しているのとは違うホテルで、さゆりはしばらくそこで寝泊まりすることになるらしい。
「さっき歩からの電話ではゆっくり話できんかった。もしかして、家にもマスコミの人が来るってことけ?」
「うん」
「うち、今日仕事やけど……行ける?」
「そっちにも報道陣が行ってる可能性はある」
「そんな……」
 言葉を失わずにはいられない。自分一人だけのことならまだしも、会社工場に迷惑をかけることになるなど思いもしなかった。ようやくさゆりは事の重大さを知る。
 黙り込んでしまったリアシートをルームミラーで確認すると、さゆりは不安を露わにした表情で固まっていた。
 友樹は、やはり歩を連れてくるべきだったかと悔やむ。
 誰かに迎えに行かせようとした槙田に、歩は自分が行くと言い張った。しかし、それを嗅ぎ付けられれば騒ぎが大きくなるだけで、だったらせめてと友樹が名乗りを上げたのだった。車はホテルの裏口から出させてもらったし、すでにマスコミがエッジワースの宿泊しているホテルの出入り口を押さえていたとしても、彼らは歩ばかりに注目しているので友樹なら簡単な変装でその目をごまかせる。加えて、さゆりの家の場所から事情にいたるまで第三者に説明する手間が省ける。なにせ東京ではないので事務所の人間は槙田しかいない。それこそ槙田は事務所とのやりとりでそれどころではなく、かといって、ツアースタッフには頼める事由ではない。悲しいかなバンド内の位置づけがそうであるように、友樹はスタッフに準じた働きをすることに慣れていた。
「さゆり、大丈夫か?」
 友樹が声をかけると、さゆりがはっと顔を上げたのがわかった。
「……正直、少し混乱しとる。まだ現状さえうまく把握できとらんちゃ」
「当然だよ。俺らはこの五年、そういうのを少しずつ学んできたし耐性もつけてきたけど、さゆりは突然だもん。しかも不可抗力だし」
「何も考えんと、うちってば浮かれて……バカやね。はずかしい」
「違うって。さゆりは何も悪くない。昨日のは全部歩が悪いよ、軽率だった。まあ、気持ちもわからんではないけどな。俺らもお前らのヨリが戻って嬉しくて浮かれてたとこあったし」
「けど、なんでバレたの? なにがダメやったの?」
「ああ、今回のは別にお前らの写真が撮られたとかそういうわかりやすい事じゃなくて」
「歩は昨日のライブパフォーマンスがどうのって」
「うん。もともと古参ファンの間でさゆりの存在は有名だったんだよ」
 愛美からも以前、さゆりがそれとは知らず、歩の高校時代の彼女の噂を聞いたことがある。今思えば、逆にそこまで知られているのに、今までさゆりの名前や写真が出回っていなかったことが幸運だったのかもしれない。ひとえに、あの頃の歩やさゆりの交友関係の狭さゆえだろうが。
「歩があんなこと言って、おまけに今まで封印されていたギフトを歌って、ましてや地元でだろ? 憶測が憶測を呼んでツイッターでファンが盛り上がっちゃったわけ。したら掲示板、さらにはそれにマスコミが便乗して、スクープ記事になっちゃって」
「友くん、どうしよう」
 さゆりは暗い車内でもわかるほどに青ざめていた。
「ごめん。どうしようもないんだ。天狗になってるわけじゃなくて、俺ら……特に歩は今、思ってる以上に世間に影響力がある。それは事務所からも言われてるし、俺ら自身いろんなところで身をもって体験してきてる。はっきりいって暮らしづらいよ。歩はもっとだ。だから、これからはさゆりもそうなると思う。ともかく今は、ほとぼりがさめるのを待つしか……なんて、慰めにもなってねえな。ごめん」
「ううん……」
 さゆりは思い切り首を横に振った。友樹は悪くない。歩も何も悪いことはしていないと思う。
では誰が悪いのか。頭が混乱しているせいか、さゆりにはわからなかった。
「とにかく、槙田さんがちゃんとやってくれるから。さゆりは心配するな」
 車は早くも市街の中心部を走っていた。
 早朝の道路は恐ろしく静かで、見上げた空もまだ夜は明けそうにない。

*

「で、東京に逃げてきたわけだ? A子さん」
「違うって。『A子さん、カッコ仮名』だよ」
 翼と相沢にそう言われたさゆりは、「ホントウはS子なんです、ヨロシクー」とおどけてみせる。
「S子も正しくねえけどな」
「私だったらT子さんってこと?」
 まさか渦中の『A子さん』がこんなところにいるとは誰も思わないだろう。
『A子さん(仮名)』というのは、ここ数日芸能ニュースを賑わせている『エッジワース桐谷歩の十年愛』のお相手の女性である。
 もっとも今、三人の周囲にはエッジワース、ましてや歩に興味がありそうな人種はいない。平日のオフィス街の大衆居酒屋は赤い顔をしたサラリーマンばかりだ。
 さゆりは一気飲みに近い勢いで空にしたジョッキをどんとテーブルに置いた。
「あー、誰かと会って話すの久しぶり! この何日間か引きこもっとったからね。あ、すみませーん。おかわりお願いします!」
「さゆりちゃん、ピッチ早くね? 方言も出ちゃってるし」
「まー、今日は仕方ないんじゃない?」
 二人はそれぞれ渋い顔をして、さゆりの空元気を痛々しい目で見る。
「で、どうなのよ? 逃げてきたって言うけど、こっちの方が見つかりやすいんじゃないの?」
「ほら、ナントカは森の中に隠せって言うでしょ」
「それを言うなら『木』だな」
「そうそう」 
 滞在先を変えたのは、東京の方が人の目は多くあれど、逆に紛れることができるという槙田の考えからだ。
 ずっとホテルにいるさゆりなのに、どこそこで見たとか、今どこそこにいるなどという情報がSNSによって拡散され、さゆりは出歩くことができなくなっていた。物理的にも、精神的にも、だ。
 五日間、ホテルの部屋から一歩も出ることはなかった。
 外出を禁止されたわけではなかったが、状況が明らかになるにつれて出かけられなくなったのだ。人の目が怖い。部屋から出たのは初日、まだ現状を楽観視していたさゆりがいつもどおり出勤した際の一度きりだった。
 食事も全てルームサービスで済ませた。槙田はさゆりがそうなることを予想していたのか、すでに予約時にそのように手配してくれていた。
 あの日、ホテルへチェックインし、さゆりは落ち着かない様子で友樹に言われたとおり槙田からの連絡を待った。しかし、夜が明けて、出勤する時間になっても、その訪れもなければ電話もなく、仕事に向かうことにしたのだ。何もないのに休むわけにはいかない。
「そしたらね、案の定、工場の前の歩道にカメラとか持ったマスコミっぽい人が何人かいて」
「掲示板に勤務先まで晒されんのかよ。怖ぇー」
「気づかれないように裏口から入ったのはいいんだけど、中でも問題が起こってて。もう参ったよー。いつも超平和な事務所なのに電話は鳴りっぱなしだし、上司には呼び出されてお小言もらうし」
「さゆりは何も悪いことしてないじゃん!」
「けどまあ、普通に考えて、会社にとっちゃ迷惑な話だろ」
 同じ工場で働く身内ですらその顔を見んとわらわら訪れる始末で、確かにさゆりは混乱を生んでいた。
 結局、溜まっていた有給休暇を消化するという名目で長期の休みを取ることになった。取らされたとも言える。取らざるを得ない状況だった。
 社会人として無責任で恥ずかしく、申し訳なく思う一方で少し救われたこともあった。
 愛美のことだ。事情を説明するにも言い訳になってしまうが、ともかく嘘をついていたことには違いないので謝りたかったが、当然のごとく無視された。送ったメッセージも読んではくれているようだが返事は来ない。巷で噂の「既読スルー」に、自分が思い悩む日が来ようとはさゆりは思いもしなかった。
 出勤したものの早退扱いにされ、その足で帰ることになったさゆりは、ホテルに戻って泥のように眠った。しかし二日目からはさすがにそうも寝られず、かといって出歩く気力はない。自宅でもないので家事も用事もない。話し相手もおらず、テレビ番組は見る気もしない。
 とうとう暇を潰せなくなり、さゆりは迷った挙句スマートフォンに手を伸ばした。たとえそこが悪意に満ちた世界だとわかっていても、もう避けては通れないのだから。
「いやー、ネットってマジ怖いわー」
 翼は椅子の背もたれに仰け反りながら、辟易した様子で言った。基本的に何に対しても強気な翼には珍しい。しかし、それはさゆりも同感だ。
「ツイッターのトレンドにさゆりちゃんの名前が入ってた時にはホントびっくりしたよ」
「あはは、うちこそひっくり返りそうになったよ」
「ヤフトピにも記事が上がってたし!」
 歩は最初こそインターネットを確認するように言ったが、その後の電話では見るなと言った。かと思えば、やっぱり見るべきだ、できるだけ見ないほうがいい、と二転三転した挙句、結局最後には、さゆりの自己判断で、ということに意見を落ち着かせた。
 見てもいいけど、けしていい気分になるものではないとご丁寧に言い添えることを忘れずに。
 それが愉快なものではないことくらい、さゆりにもわかる。だからずっと躊躇っていたのだ。
 四宮さゆりと検索して表示された画像には、目元が黒く塗りつぶされている良心的なものもあったが、ほとんどはプライバシーの配慮などなされていないそのままのさゆりだった。
 しかし、写真の流出などかわいいもので、それに付随する記事やインターネット掲示板での誹謗、中傷の方がはるかにひどく、攻撃的だった。さゆり個人のことから歩との関係、別れた原因、その理由に至るまで、無遠慮にあることないこと好き放題に書かれていた。身におぼえもないさゆりの非道を吹聴するものや人格を否定するもの、中にはさゆりの両親のことまであった。人間不信にならないはずはない。
「しかしさ、さゆりは高校時代の方がかわいいかったね。アレだ、いま流行りの劣化ってやつだ」
「流出するにしても、せめて写真は本人に選ばせて欲しいよな」
 二人はあえて明るい調子でさゆりを気遣う。その優しさと温かさが、今のさゆりには痛いほど嬉しい。
「で、どう? こっち来て少しは落ち着いた?」
「うん。ありがとう。気分も変わったし、元気出たよ」
「彼、コメントしてたよね。テレビでやってた」
「私、あれ見て余計に腹が立ったんだけど!」
「まあ、あれが本気じゃないのは明らかだし。事務所がとりあえず沈静化を図ったんでしょ」
 普段から特に芸能ネタやゴシップ記事には興味のない二人だが、今は積極的にチェックしてくれているらしい。
 歩は、騒ぎになったその日のうちに事務所を通じてファックスでコメントを発表した。
 報道されている女性は高校時代の同級生として確かに存在すること、今の自分とは何ら関係はないこと、相手は一般の女性であり、すでに多大な迷惑をかけているので良識ある行動と十分な配慮をしてほしいことなどが歩の直筆で書かれていて、さゆりも相沢同様、それをテレビの芸能ニュースで見た。
「うん。おかげでもう報道陣は来なくなったみたい。この前、会社に連絡したときに上司が言ってた」
 マスコミ各社それぞれに可能な限り抗議をしたと歩から聞いている。
「さゆりちゃん、こっちでもまたホテル住まいなんだろ?」
「だから、うちに泊まればいいって言ってるじゃん。遠慮することないんだからさ!」
「ありがと、つばっち。でも迷惑かけたくないから。いつまでこんな日が続くかわかんないし」
 翼は怒っているのに泣きそうになっている。
「だったら、ヤツの家に行けばいいんじゃん。こんな状況で一人でホテルとか気も滅入るよ! 頭おかしくなるよ!」
 さゆりは、ううん、と首を振った。
 槙田はさゆりに、歩のマンションに身を寄せても構わないが、週刊誌に狙われているのは間違いないので、一旦入ったが最後しばらく外には出られない日々になるけれどいいかと尋ねた。歩と一緒にいられるならそれでもと思ったが、何せツアー中のため歩はほとんど家には帰れないと知り、どうせ一人なのなら少しでも出歩けるほうがいいとホテルを選んだのだ。
「じゃあ、彼と会ってないの? 全く?」
「うん、すごく忙しいみたいで。まあ、そうじゃなくても警戒中だから接触は控えるようにって、マネージャーさんが」
「接触って、刑事ドラマかよ。被疑者みたい」
 相沢が苦笑する。
 実際、歩とは一度も会えていない。その代わりメッセージは頻繁に届くし、忙しいスケジュールの合間に電話もくれる。
 ただ、電話帳番号の交換はおろか話したこともあるかどうかという中学や高校のクラスメイトから着信があったり、ひどい時には見ず知らずの人からかかってくることもあって、数日前からさゆりのスマートフォンの電源は落ちたままになっている。
 たまに電源を入れて、着信を確認するのが精一杯だ。正直なところ、歩への返信するのも億劫になってきている。
「……大丈夫?」
 相沢の声に顔を上げ、さゆりは笑顔を作った。
「うん、大丈夫だよ?」
「彼とはちゃんと想いを伝え合ったんだよね?」
「なに、改まって」
「じゃあ、俺の気のせいかな? 喜多茉莉菜との報道が過熱してる気がするんだけど」
「ああ……」
 さゆりの笑顔が困ったものに変わる。
 今朝のスポーツ紙の一面は、昨夜福岡で行なわれたエッジワースのライブに茉莉菜がお忍びで参戦していたというものだった。
 さゆりの存在が明るみに出たことで、一番に怒鳴り込んできたのは茉莉菜の事務所だったらしい。歩と茉莉菜の熱愛記事が出たばかりだというのに、いまさら昔からの女と実はデキていましたとなれば振られた形になる茉莉菜のイメージダウンに繋がると言うのだ。
 もっともその裏には、先日すっぱ抜かれた歩との熱愛記事がプラスに働いたようで、意外なことに茉莉菜の好感度が上がったらしい。しめたとばかりに茉莉菜の事務所は、歩との関係を存分に利用したいという魂胆があるらしかった。
 結果、さゆりとは無関係であると公に発表するということで茉莉菜サイドは納得した。一時は、これを機に茉莉菜と交際宣言をさせるという話にまでなっていたらしいが、それは歩が頑なに拒否したと槙田に聞いた。
 おそらく、昨夜の茉莉菜のライブ観賞は、二人の交際が順調であることをアピールするために撮らせたのだろう。
「大人の事情ってやつか」
「やだやだ! オトナ、やだー! そーゆーの一番嫌いっ!」
 翼が、やつあたりとばかりに隣に座る相沢の身体を乱暴に揺らす。
「さゆりちゃん、これからどうすんの?」
「うーん。それが、どうしようもないんだって。ほとぼりが冷めるのを待つしか」
「なにそれ! どうにかしろよ、桐谷歩!」
 酔いが回ってきたのか、翼がわめき出した。相沢は慌てて周囲に目を配り、
「声がでけーよ、翼」
「つばっち、しー、だよ!」
 さゆりは人差し指を口にあてる。
「だって、そんなの幸せじゃないじゃん! さゆりばっかり辛いじゃん!」
「確かにそれはそうだ」
 茉莉菜との仲を疑ったりはしていない。
 歩との仲を公表できないことに不満があるわけでもない。
 真実は自分と歩の中あって、それを周りの少しの人間が知っていればいい。
「つばっち、ありがとう。うち、大丈夫だよ……」
 ただ少し疲れているだけで。一人で頑張ることが、少し、しんどいだけで。
「大変だねえ。芸能界も、その妻も」
 相沢がそう言いながら、煙草に火をつける。
 さゆりは何も答えず、すでに残り少なくなっていた二杯目のビールを飲み干した。
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