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佐久間マリのオリジナル小説ブログ 18才未満の方の閲覧はご遠慮ください

   
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たぶん、きっと、ずっと、僕は7
7.

 歩の知るさゆりは、肩に着くか着かないかの髪の長さで、縫いぐるみのような大きなマスコットがぶら下がるリュックを背負って、ピンク色のハイカットのコンバースをはいていた。
 いつも朗らかに笑って、てきぱきとしているのに、どことなく口調はおっとりとしていて。
 けれど今、目の前のさゆりは間違いなくさゆりではあったが、そのかけらは何一つない。
 公園の中央に一つだけすっくと立つ外灯は入り口の方までは届かない。圧倒的な闇の中で、それでも互いが認識できるには十分な漏れ明かりだった。

「何、しとるの?」
 そう言ったさゆりの声は強張っていて、表情にも感情はない。
 歩にしても、まさかさゆりと顔を合わせることになるとは思ってもいなかったので、とっさの答えはうまく見つからなかった。
「えっと……ちょっと、こっちに帰ってきてて……それで、なんか、その……」
 言葉が続かない。歩はあきらめて潔く黙った。そして、ようやくしばらくしてから、ごまかすように笑うと、
「久しぶり」
「……うん」
 さゆりのそっけない反応に、歩の顔に浮かんでいた笑みは薄れ、来たことを後悔した。かといって、ここで「じゃあ」と踵を返すわけにもいかず、とりあえずはひととおりの社交辞令まで終わらせる必要がある。
「元気、だった?」
「うん」
「俺も、なんとか」
「うん」
 会話が続かない。嫌な焦りで、握った拳に力が入ったその時、鳴きながら足元に擦り寄ってくる小さな存在があった。
「もしかして、それ、こいつにやるの?」
「……え? あ、うん」
 さゆりは思い出したようにその場に屈んで容器に牛乳を入れた。
「かわいいな」
「そのコ……、うちやと逃げるちゃ。これだってうちが見とる間は飲んでくれんし。人間嫌いなんかなって思っとったけど……」
「そうなの? こいつ、さっき抱かせてくれたよ」
 歩も倣ってしゃがみ込み、猫の背中を撫でてやった。みゃあと鳴く。
「うちが嫌われとるだけなんかな。一週間くらい前に見つけて、連れて帰りたいがいやけど、なかなかゆうことを聞いてくれんの」
 さゆりの声は乾いている。俯いていて表情もうまくうかがえないが、笑っていないことは確かだ。
 確かに、猫の興味は歩ばかりで、さゆりの手元には見向きもしない。
「俺が抱っこして家に連れて行こうか?」
「え?」
 そこではじめてさゆりが顔を上げる。夜の青い光に照らされて、肌は白く透き通るようだ。近くで見ると瞼がかすかにきらきらと光っていて、化粧をしているのがわかった。
「慣れたらさゆりにも抱かせてくれるよ」
「そうかな」
「うん」
「……そんなら、お願いしようかな」
「よし。じゃあ、行くか」
 仔猫は簡単に歩に抱かれ、さゆりはその後ろに続く。家までの距離はほんの数メートルだ。
「寒くなるし、どうしよかと思っとったちゃ」
「ほんと、やっぱこっちは冷えるよな。東京じゃ余裕でまだTシャツ一枚だもん。パーカー着て来てよかったわ」

「ねえ、もしかして、うちが帰るの待っててくれたんけ?」
「えっ、いや、そんなことは……」
「だよね」
 さゆりは未だ堅い口調のまま、少し笑った。
 ぼやけた門柱灯に四宮の表札が浮かび上がっている。さゆりは家の前まで来ると、先にドアを開けた。歩は感慨深く敷居を跨ぐ。言葉にできないさゆりの家の匂いがした。
   玄関の中はすでに電気がついていて、上がり框には、さゆりのかばんとスーパーの袋が崩れるようにして置かれている。どうやら買い物してきたそばから牛乳だけを取り出して公園に向かったらしい。
 腕の中でおとなしくしている猫を明るいところでみると、柔らかい白色をしていた。牛乳のようなこっくりとした白だ。外にいたわりにそれほど汚れてはいない。
「今日からここがお前の家だってさ」
 歩が廊下に向かって放すと、軽い着地とともに、にゃと濁った声で鳴いて、しかしまたすぐに玄関に飛び下り、ドアの外に向かって鳴く。まるで助けを求めんばかりに鳴くのだ。
 さゆりは靴も揃えず慌てて家に上がり、奥から猫の毛色と同じ色のベッドを抱えてやってきた。
「ほら、こんなのもあるちゃ。あったかいよ? ままもこうてあるよ?」
 必死に機嫌を取るさゆりだったが猫がそんなものにつられるわけもない。
「どうしよう……。こんなに鳴いて、外に出たがって……」
「女の人が嫌いとか、そんなのかも」
「そんなあ、ショック……。でもこんままじゃダメやちゃ?   だってこれ、もう動物虐待やろ?」

 歩は思わず小さく噴き出した。確かに猫の鳴き声は悲鳴にも似ている。そのうちにドアにがりがりと爪を立て出すだろう。 
「もしよかったらさ」
 そう言った歩に、さゆりが視線を合わせる。
「俺、もらってもいい?」
「え?」
「マンションはたぶん大丈夫。犬飼ってる人をエレベーターとかで見るから。長く家を空けるときは母さんに頼むし。雅和も……ああ、今もよくうちに遊びに来るんだけど、ほら、あいつも動物好きだしさ」
「でも……」
「せっかくさゆりが飼おうとしてたのに、横取りするようで申し訳ないけど」
「ここまで嫌われてるんやもん、諦めもつくっちゃ」
 抱えていたふわふわのベッドを差し出すと、
「だったら、これもどうぞ。一緒に持って行って。あとトイレも買うてあるちゃ」
「いいの?」
「だって、うちにあっても仕方ないが」
「金、払うわ」
「いっちぇ、そんなのー」
 さゆりはそこで今日はじめて、あはっと歯を見せて笑った。
 二人を取り巻いていた硬い空気が一瞬で霧散したのを、歩は肌でありありと感じる。にわかに軽くなった心で、歩は、おいで、と仔猫を抱き上げた。
 さびついていた会話が滑らかに回転しはじめる。 
「もう! この子ったら、絶対女の子やちゃね。でも、今日いきなり連れて帰られるのけ? ホテルに泊まっとるんやろ?」
「ああ、平気。ちょうど車だし。……マネージャーの」
「そうけ。そんならよかった。しっかし、東京から車って、マネージャーさんご苦労さんなことやちゃねえ」
 さゆりはすでにペットキャリーまで揃えていて、歩はとりあえずそこに猫を入れて帰ることにした。
「名前は決まってんの?」
「まだやちゃ。白猫なさかいにミルクとかどうかなって?」
「ミルクって……まんまだな。なあ、俺が決めていい?」
「もちろんいいが。何にするの?」
「どうしようかなー」
 餞別にと、さらにさゆりは猫缶一ダースの入った袋を奥から持ってきた。
 歩はその他の猫グッズが入ったペットショップの大きな袋と、もう片手には猫の入ったケースを下げて、
「ありがと。じゃあ」
「歩!」
 歩の手はすでにドアにかかっていた。さゆりの足が上り框ぎりぎりのところで止まっている。
「あの、時間急いどる?」
「え? いや、別に……」
「せっかくやし、暖かいものでも飲んで行かれ。ほら、もうこんな機会ないやろうし」




「どうぞ。散らかっとるけどごめんね」
 さゆりは足元のスーパーの袋と鞄を提げなおし、上がり框を空けた。差し出された来客用のスリッパは、えんじ色にオレンジの水玉模様で、よくイラストにあるポップなキノコみたいだと歩は思う。
「……お邪魔します」
「そっちの部屋入ってー」
 さゆりは既に廊下を奥へ進み、キッチンへ消えている。歩はその手前のリビングへ通じるドアから入った。中でダイニングキッチンと繋がっているのは知るところだ。
「おじさんとおばさんは出かけてんの?」
「……あ、うん。ちょうど今夜おらんで」
「旅行?」
「そうなん。歩が来たって知ったら、きっと残念がるっちゃよ」
 互いにいる部屋が違っていても会話ができるほどに家は静かだ。
 歩は一人、ぐるりと部屋を見まわす。さゆりの家は全く変わっていない。強いて言えば、カーテンやラグマットだとかがモダンなものに変わったことくらいだろうか。家具などは歩が知る時のままだ。
 水道から勢いよく水が出る音に消されないようにか、少し大きな声が飛んできた。
「今日は仕事でこっちに来たんけー?」 
「あー、うん……」
 テレビの前にソファセットがあるが、そこではなく、歩は地べたに腰を下ろした。昔、この家に遊びに来ていた時からソファに座ったことはない。
 テーブルの上に『はじめての猫』という本が置いてある。それをぱらぱらとめくるも内容は頭を素通りし、耳は、さゆりが台所でガスに火を点ける音に集中している。
「ねえ、他のみんなも帰って来とるのけ? そういえば今度こっちでライブするんやろ。もしかして、今日はその件で?」
「あー、うん、そんな感じかな」
 事前にメンバーがライブの下見や打ち合わせに赴くことはないが、それを詳しく説明する必要
もないと思い、歩は適当に受け流す。
「ああ、そっか。みんなは実家があるけど、歩は帰るところがないからヒマなんやね。歩のおじさんおばさんは東京でまめけ?」
「うん、超元気。兄貴は去年結婚した」
「かけるくんが? あーあ、みんなのアイドルもとうとう年貢を納めたんかあ」
 歩の兄の駆は、当時、地元では有名なイケメンだった。顔は似ているが、歩と違うところは勉強がよくできたことと背が高かったことだ。高校時代、他校にも大勢ファンがいるくらいで、東京の大学に進学が決まった時、どれだけの女子が泣いたことだろう。バレンタインと言えば店が開けるのではないかと思うくらいにチョコレートが集まり、それを分けてもらってメンバーでチョコレート祭りをするのが恒例だった。
「ほんと、かけるくんに憧れとる子は多かったもんねえ。今も相変わらずかっこいいんけ?」
「今は奥さんにデレデレなただのおっさん」
「ええー、それはショックやちゃ」
「憧れてたって、さゆりもそうだったの?」
 台所で、さゆりがふふっと笑っている。歩は少し面白くなく、話を変えた。
「マインさんとこ、寄ってきた」
「そうなが?   喜んどったやろ?」
 さゆりがトレーにカップを二つ乗せてリビングへやってきた。テーブルを挟んだ向かいに、歩と同じく床に座る。
「ごめん、インスタントで」
 ソーサーつきのコーヒーカップはよそよそしく、同時に離れていた時間を再確認する。あの頃、熱いコーヒーを飲むなどということはなかった。飲み物はいつでも冷たかったし、甘かった。
 家の中は静かだ。東京のマンションの自室の切り取られた静寂とはまた違う、土地そのものの持つ漠然とした静けさがあった。猫もキャリーの中でじっと動かない。眠っているのかもしれない。
「……元気だった?」
 改めて、歩の発した言葉は緊張していた。
 しかし、「うん」と笑うさゆりはあの頃と変わらないように思えて、少し切なくなった。
 黒かった髪は少し栗色に染められ、まっすぐだった毛先もわずかにカールしている。あの頃、一直線で切りそろえられていた前髪も今はななめに流されていて、大人っぽかった。
 ロックバンドのボーカルの『彼女』であるから、当時のさゆりが革ものだとか鋲やスタッズがついているようなパンクファッションだったかというとそうではない。もっとも歩自身がそうではなかった。それでも、田舎においては少しおしゃれで、同じ高校の女子に比べれば前衛的だったが、今のさゆりからは当時のセンスは全く香らない。ボーダーのニットにデニムスタイルと言う可もなく不可もなく、ごく一般的なスタイルだ。
「あの」
 次に口を開いたのは同時で、二人の声がかぶる。
「歩、先にどうぞ」
 さゆりが笑う。
「……髪、伸びたな。なんか……昔と違ってて、びっくりした」
「なーん、当り前やちゃ。これでも伸ばしたり、短くしたり、何回もしたんよ。最近はずっと長いけど」
 そう言って、胸元で遊ぶ毛先に指で触れた。
「歩は、もっとかっこよくなったね。さすが芸能人。うち、恥ずかしいわ」
「そんなこと……」
 歩は最後まで言えずに俯いた。胡坐をかいたデニムのかかとのすりきれを見ながら、こんなことで照れるなんておかしいと思いながら。
「製薬工場で働いてるってマインさんが言ってた。今、仕事帰り?」
「うん、そうだよ」
「そっか……。次、どうぞ。さゆりの話」
「うん、では」
 さゆりはおどけたように両肩を上げて、
「あのね。知っとるかもしれんがやけど、今度、同窓会……」
「そうだ、それ!」
 歩ははたと思い出した。
「それでうちに来てくれたがいちゃ?」
「あ、うん……まあ」
 なんとなく鼻の頭に触れて、
「おまえ、いつの間に同窓会委員なんてやってたの?」
「いつの間にってひどいよ。ホームルームで委員決めるとき、誰も手を挙げんでさ、決まらんと帰らさんって先生がゆったちゃ、その日スタジオを夕方割引で予約しとったっけ、それで仕方なくうちが立候補したんやん。一刻も早く帰りたいがために」
「ああ。三時までに入ったら半額だったっけ?」
 高校時代、金銭的な問題からスタジオでの練習は貴重だった。人気が出て、ましてやデビューが決まったからと言ってもそれは変わらず、さゆりはいつも割引券やスタンプカードの特典を利用して、スタジオ代を安く上げてくれていたことを思い出す。
「でも向いてるんじゃね? さゆり、委員長だったし、人気者だったじゃん」
「……それは中学までの話だが。今は全然、向いとらん」
 さゆりが小さく答える。歩が出会った頃、しっかり者で明るくてかわいくて、と三拍子揃ったさゆりは人気があって、男子がさゆりのことを噂するたび、気が気でなかったことはよく覚えている。
「同窓会のこと、太郎に聞いて……」
「ああ、イチくんのはがきは雅くんが書いたん? 四組の委員の子から聞いたちゃ。それに、友くんは返事くれた。元気か、行けなくて申し訳ないって律儀に。変わっとらんね。歩にも出したのよ、こっちの昔の住所やけど。当たり前がいやけど、そのまま返ってきたわ」
「それ、まだある? 俺の、返ってきたやつ」
「え? はがきけ? あるけど」
「貸して。返信書いていい? ごめん、行けないけど」
「わかっとるが。逆に来られたらびっくりする」
 さゆりは笑ってから、立ち上がってはがきの束を取って戻ってきた。
 歩宛のものには、『あて所に尋ねあたりません』と赤いスタンプが押されていて、ちゃんと自分にも出されていたのだと思い、安心した。正直なところ、一太郎や友樹にはがきが届いたと聞いて、届かない自分は招かれざる客なのかとほんの少し卑屈になっていた。
 実家の引っ越し先はともかく、上京して歩が最初に住んだ例のバストイレ別のアパートの住所ならさゆりは知っているはずなのにとおもしろくなかった。あのアパートの郵便物の転送期間はもうとっくの昔に過ぎてしまっているというのに。
 ハサミを借りて、往復はがきを半分にし、自分のところにあるべきはポケットに、さゆりのところにあるべきはさゆりに渡した。
「それ新しい住所。東京来ることあったら寄ってよ」
 返信欄の埋まったハガキを見ながら、さゆりはふふっと笑っただけだ。
「みんなもしょっちゅう遊びに来るし。携帯も書いといた。……昔の番号と変わってるから」
「うん。名簿作ることになっとるんやけど、そこに歩のデータは入れんでおくね。悪用されると困る」
 さゆりはそう言いながら、はがきの束に歩のそれを重ね、トントンを音を立てて揃えた。
 急に会話が途切れる。次の話が見つからない。話したい気持ちは山ほどあるのに、かといって話題はあまり多くなかった。触れてはいけない地雷が多いうえに、離れていた時間は長く、生活があまりにも違いすぎる。何を、どこから、どう話せばいいのかわからない。
 壁の時計を見ると二十三時に近い。
「……そろそろ帰るわ」
「そうけ?」
「ん、もう遅いし」
 歩はペンを置き、腰を上げる。何かを期待しているような、それともすべてが期待はずれだったような、なんとも曖昧な心持で。
「もうコタツ出さねえと。寒くねえ?」
「まだ早いちゃよ。すっかり歩は都会っ子やね」
「そんなことねえけど。コタツって言ったら鍋だな。今日も友樹ん家……」
「友くん家?」
「ううん、なんでもない」
 思わず友樹らが東京で鍋を囲んでいることを言いそうになった。メンバーは今、N県に来ていることになっているのだ。

「相変わらず仲良くていいね。よいことやちゃ」
 再び大きな荷物と小さな生き物を両手に、スニーカーのつま先を玄関のタイルで叩いて履く。
「忙しいのに悪かったね。わざわざありがとうね」
「いや、俺こそ突然ごめん。じゃあ」
「……歩!」
 ドアを開け、冷気が入り込んだ玄関で、さゆりは慌ててサンダルをつっかけた。
「あの、……会いにきてくれてありがとね。……嬉しかったちゃ」
 さゆりの言葉には、ためらうような間があった。それが別れを告げた者、告げられた者の立場から言っているのだとわかった。再会にあたって勇気がいるのは歩の方だ。気持ちに整理が必要なのも、別れが過去になっているのも、それは別れを告げられた者の方。
 けれど、二人でいると五年前と何ら変わらない気がする。会わなかったこの五年など実はなく、別れからデビューに至る現実こそが高校生の歩が見ていた夢なのではないかと思うくらいに。けれどさゆりはきれいな大人になっていて、歩には東京の日常がある。
「……さゆりはさ、この五年、元気で幸せだった?」
 さゆりはややあって、明るく曇りのない、毒にも薬にもならない笑顔で「うん」と答えた。
「それならいーよ」
 さゆりは屈んで、キャリーケースの透明の窓から中の猫を覗き、
「いいコでね」
「責任持って世話するから。じゃあ」
 外まで見送りに出ようとするさゆりを玄関の内で制して、
「俺が出たらすぐ鍵閉めて。戸締り気をつけろよ。今夜一人なんだろ?」
「……うん、わかった。ありがと。じゃあね」
 そこで別れを告げ、ドアを出ると、ドアが閉まる。歩の後ろ髪などものともせずに、ドアが閉まる。本当に閉まってしまった。閉まってしまえば、あっけなく、夢だったのかと思うくらいに、さゆりと別れたことは現実だった。
 外はますます冷え込んでいた。
「親がいねーとか、超チャンスじゃん」
 あの頃だったなら。昔の自分ならば。
 若かりし頃の青い発想を愛しく、懐かしく思いながら、まさかの一人と一匹で帰ることになった遠い東京に向けて、車のキーロックを解除する。

 鍵を横に回すと小気味のいい施錠の音がした。
 さゆりはその場でくるりと反転し、ドアに背を預ける。そして、そのままずるずるとその場に崩れ落ちた。
「びっ……くりしたぁ……。はー、ほんと、びっくり……。あはは……」
 溜息はやがて乾いた笑いに変わり、やがて、嗚咽に変わる。
 ちゃんと笑えていただろうか。自信はない。
 さゆりはとうとう顔を覆って泣き出した。
 狭い玄関の寂しい明かりが、まるでスポットライトのようにさゆりだけを明々と晒している。
   
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